twitter/android/ustreamの話

アンドロイド携帯でたまにユースト配信したりするんだー。

でさ、専用アプリを立ち上げて、さぁいざ配信。

でねデフォルトでそうなんだけど、放送の開始をツイッター上に自動でつぶやくようにしているわけ。

僕のフォロワーさんに放送が始まったことをまぁ告知するわけだ。

でね、そのつぶやき内容がね。

Hey! Im broadcasting from my android phone! come watch!

みたいな感じなのよ。たしかね。そして悲しいことに、この自動お知らせ機能の文面は編集できないのね。アプリのセッティングのyou tweet when you start broadcastingみたいなのをチェックを入れておくと、まぁ自動でさっきの文章が僕のtwitterアカウントからつぶやかれるわけですよ。url付きで。
まぁアプリ自体が英語仕様になってるから仕方が無いんだけどさ。俺のテンションと文面が全くあわないのよね。まずいきなり「ヘイ!」とか言っちゃってるでしょ。まず、僕は日常生活で「へい!」なんて言わないからね。「あぁ、、、」とかなら言うけど、「へい!」はないでしょう。あとあんなに文末の旅にエクスクラメーションマーク付けたような喋り方もしないしさ。まぁ Im broadcasting from my android phone ってところはまだ許す。エクスクラメーションマークは嫌だけど、言ってることはまぁ許す。で、最後にさ、come watch! って。なんていうかさ、文法的にどうとか、もうそういうこたぁ置いておいて、文章が全体的に非礼だよねぇ。そんな荒々しい放送じゃないんだよ。台風中継じゃないんだから。

あのー…、放送してます。よかったらどぞどぞ。

くらいのテンションなのよ。こっちは。でもあの英語の文章だとさ、

おい!オマエら!放送中ダゼ!絶対見ろよな!

くらいの勢いがあるでしょうよ。もうアメリカ人のこのガサツさに付いていけないのよねー。。。

ポタポタン。

みんな何で体洗ってるかな。僕は形状はタオルのような長い長方形で、目は粗いゴシゴシ系です。体洗ったあとは、それを風呂場の壁にデフォで備え付けられてる手すりみたいなのにピンと伸ばして干すというか掛けてあるんだ。全身を洗って、浴槽に浸かっているとさ、すごいシーンとしてるじゃない。だって夜だし?一人暮らしだし住宅地だし?まぁ、すごい静かな静寂が訪れるのだけどさ、その静寂を打ち破ると言うか、逆に静寂が1段階増すような気にさえさせるのが、さっきのタオルみたいなアレから滴る水滴なわけ。

ポタン。ポタン。ポタポタン。ポタン。ポタン。ポタポタタン。ポタン。ポタン。ポトポポタン。ポタン。ポポタン。ポタン。ポタン。ポストモダン。ポタン。ポタン。ポタソ。ポタソタン。ポタン。


絶妙に一定じゃ無かったりするのだよね。ちょうど一定じゃ無いというか、たまにある不規則なポタポタンみたいなのにワクワクしながら耳を済ませるわけだ。もちろんお湯に浸かりながらだよ。で、「次あたりイレギュラーポタンが来る!」とか頭の中で予想したりしているのだ。で、「アレ、もうちょっと先だったかー、あちゃー」とか思いながら、ひたすら耳を済ませるわけ。しばらくそうするとさ、ある時、ふと気づくことがあるんだ。みんなも感じたことあるとおもうんだけど、わかるかな、「あ、のぼせたな」っていうやつ。オマエらもきーつけや。

MAX

すごくいい。




14年前


DVDの話。

DVDでウルトラミラクルラブストーリーを見た。

・序盤から津軽弁が聞き取れず、日本語字幕を入れる。
・ラブストーリーというには余りにも流行りの「ラブストーリー」とはかけ離れているのだが、
陽人のあのどストレートな愛情表現は新しいのか、古いのかわからないが、ある意味で直球勝負のソレである。
・ラストシーンは驚いたけど、あの「咀嚼のシーン」によって全体が少し解釈できるようになった気がする。
・他にも結構「えー・・・」っていうシーンはあるんだけど、とある超人類を描いた作品なのだ、と納得することにした。
・個人的には、要と陽人のカラミが好きでした。

ではこれから「ひぐらしのなく頃に 誓 劇場版」見ます。

ボストン美術館展(後半)

先日の投稿で、ボストン美術館展に行った話をしたのでその続き。
まだ見てない人は先にこちらを→ボストン美術館展(前半)

ちなみに、この話は美術嫌いには全くと言っていいほどつまらないものになっておりま
すので、その点だけご了承ください。

えーっと、前半は、肖像画だとか宗教画だとか多くて19世紀以降が好きな僕には
とても退屈な内容だったが、ここからガラリとテンションは上がっていく。いや、
正確には、不満は浄化されむしろ穏やかになっていくと言ったほうがいい。

前回書いた、ミレーの作品のあたりから僕の歩を緩めることになる。

まずドガの馬関連の作品でとても気になった一つ。
Edgar Degas. Carriage at the Races. 1869. Oil on canvas. The Museum of Fine Arts, Boston

ドガは上流階級のボンボンである。じゃなきゃ、競馬場にもバレエにもバーにも行かない。そんなドガが書いたこの作品の気になるところは、まずこの作品が彼が1874年の「第一回印象派展」※1に出した作品である。僕の家に来たことがある人は、僕の家の東側にモネの「impression, sunrise」のポスターが貼ってあることを目にした人もいるかもしれないが、あの作品も1874の第一回印象派展に出された作品である。

話/戻

ドガの“Carriage at the Races”には「田舎の競馬場にて」という邦題が付いている。これちょっとおかしくないか。
【at the rural races】ならその邦題もわかるけども。おかげで、この作品の題材が、競馬場なのか馬車なのかわからなくなる。こういうことがあるから嫌なんだよなー。※2ドガがタイトルにcarriageという単語を使ってるところからも、主役は馬車であり、そしてその馬車に乗る家族である。犬がいて、乳飲み子がいる、上流階級の家族である。だが、この絵のとおり、題材を中央に置かないキャンバスの使い方、全体像を入れないキャンバスの辺の使い方、これはまさにドガらしい。ドガは印象派の画家の中でもアトリエで作品を作るタイプである。だからなのかわからないが、印象派の特徴である短いストロークの筆さばきは比較的少ない。この作品もそうだろう。以前もどこかで言ったような気もするが、個人的に思うドガの絵の面白さはアングルと構図である。

続いて、モネの絵、10作品。

ここは本当に面白かった。有名な積み藁、ルーアン大聖堂、蓮池の連作からも1つずつ展示されていた。
モネの素晴らしさはなんと言ってもその光と色彩である。一目でわかる季節感、空気感、温度、時間帯。
第一回印象派展では「これを完成形とは認めない」とまで酷評された印象派であるが、それが現代にいたってはにここまで脚光を浴びるようになったのか。それは僕が印象派が好きな理由ともリンクする。

それはただそれまでの写実的に写し取るだけの作業から、
観る者に語りかけるような描写へと変わっていった
彼らの表現がなんとも心地よいのである。
田舎のランドスケープが多いこともまた僕の心を休ませ、ノスタルジックにさせるのかもしれない。

この後、セザンヌやゴーギャン、ピサロ、クールベ、またイギリスのコンスタブルなどの風景画が続く。
だがなんだか頭が疲れたので、それらについて語るのはもう諦めることにする。
ゴッホのオーヴェールの家は素晴らしかった。筆さばきのリズム感も質感も色彩も。
ピサロの淡い色彩も。

あれ、クールベって写実主義じゃんって?うるせー、いいんだよいいんだよ。
クールベは写実の人だけど、オルセーの2作品、あのちょーでかいやつ。あの2作品で田舎の小学校の体育館の床面積くらいあるんじゃないかってやつ。あれを見て僕は死んだのだ。埋葬されたのだ。だからいいの。
コンスタブルも別に印象派じゃないけど、風景画がきれいだよね。ターナーもコンスタブルも見た目からして全然印象派じゃないけど、あのへんは、なんだか僕を田舎に帰してくれるので好きなのだ。あー疲れた。




※1 第一回印象派展と記述したが、当初この展覧会には「印象派」などという言葉は付いていなかった。モネ、ルノワール、シスレー、ドガ等が「印象派」と呼ばれるようになった理由と関係してくるのだがその理由は諸説あるので知りたい人は調べると良い。

※2 ドガはフランス人だから、きっと元々のタイトルはフランス語だったんじゃないのか。carriageって英語じゃないか。そしたらあーだこーだというお叱りはそのとおりでございます。反論の余地なし。しょぼーん。

ボストン美術館展(前半)

松岡美術館に行こうと思って、自転車で恵比寿まで行った。

着いたら、【本日は閉館しました】って出てた。
展覧会は17時まで。その時、16時59分。

まだ1分あるじゃん!って思ったら(入館は16時30分まで)って書いてあって、ショボーン。
まぁ一分あって何ができるって話だけどね。

それでしょうがないので、恵比寿→広尾→六本木と来て、
森ビルでやってるボストン美術館展に来た。
途中広尾のあたりで警察官が30人くらい見た。何かあったのかな。


ボストン美術館と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、
やはり【Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going?】だろう。

あと、個人的には、【ラ・ジャポネーズ】もいつか生で見たい作品。
2007年のモネ展にも来なかったしね。

まぁ、そんなこんなでボストン美術館展ですが。
何故か音声ガイドをもらわないと、
作品一覧表みたいなのをもらえなかったみたいで、
曖昧な記憶で振り返ることにする。

まず最初は肖像画のコーナーだったかな。
どれも近代以前の作品だったが、マネのムーランの肖像画が一際異彩を放っていた。
平坦な彩色に最小限の陰影。キャンバスのサイズも50×50くらいだろうか。
マネの肖像画というと、モリゾが有名だが、その約10年くらい前の作品。
モリゾの作品とは逆に白い服に黒い背景だった。スペインの影響がまだ多分に表現されている。

あと、ドガの作品でおそらく知人の夫妻の肖像画があった。

※ドガは印象派の画家として有名であるが、
印象派とされる画家の中で最も人物画(それは言葉通りの"人物画゛だけではなく風景の中に自然に人物が含まれている場合も含む)を描いている人だと思う。ダンサーの連作や、馬の連作、初期にはもちろん肖像画も多数描いている。

この肖像画を見て思ったのは、なんて自然な表情なのだろう、ということだった。
肖像画というと、どうしても口は真一文字に閉じられるか、もしくはその逆で、google image
で【笑顔】を検索した時に一番に出てくるような笑顔か、そういうのが多い。もちろん近代以前は前者が圧倒的だ。

だがこの夫妻の絵はどこまでナチュラルである。
よく写真を撮る際に、まだ撮られる側がまだ撮られると思っていなくて、表情を作ることもせず、ポカーンとした所謂「素」の状態を撮られることがあるかと思うが、まさにあれである。言ってしまえば、旦那の方は口は半開きで、嫁もどことなく不安げな表情。彼女はどこか、きっとまだ世界に「写真に撮られると魂を抜かれてしまう」という言説が蔓延っていた時代に、夫が言うからしょうがなく一緒にフレームに入っているだけで、本当は嫌なんです、とでも言いたげな顔だ。この日常の切り抜き間が印象派が印象派と呼ばれる所以でもあるのだが。。。

ミレーの作品もあった。【ルツとポアズ】と【馬鈴薯植え】くらいだったかな。農村の絵かきとして【晩鐘】、【落穂拾い】などで有名な彼である。農民の絵を書くというのは結構レアなのかな。田舎の風景がというのはよくあるけども。そう考えると16世紀のブリューゲルとかもあの時代にしたら例外中の例外だけど。。


※ミレーとだけ表記すると誤解を与えることがあるので、一応断っておくが、ミレーというのは、ジャン・フランソワ(バルビゾン派)の方で、ジョン・エヴァレット(ラファエル前派)の方ではないので、気をつけてください。英語で書けば区別できるのだけど、カタカナで書くとどちらも「ミレー」になっちゃうから。ここを混在している人結構いるよね。【落穂拾い】、【晩鐘】と【オフィーリア】、【カーペンターズ】を描いた人が同じではないですよwほぼ同じ時代に生まれるからややこしい。こう考えるとマネとモネもあぶなかったね。てかラファエル前派ってあまり日本に来ないね。ロンドンのテートモダンで見たロゼッティの作品とか是非また見てみたいけども。


というわけで話は戻ってって、、、あぁ、まだ半分位しか触れてないのに、もうこんな量になっている。
ブログの1投稿が長くなりすぎることに気をつけようと思っていたのに。全ては無駄な話の脱線のせいorz
じゃあ、後半は別投稿にしますかね。
ちなみに後半はモネ、シスレー、あとイギリスのランドスケープ画家コンスタブルとか、写実のクールベ、あとは後期印象派を少し。そんな感じかな。

時計の修理の話。

時計が壊れた。ただ壊れたと言っても、それはメカニック的な問題ではなくて、皮のベルトの部分が裂けてしまったのだ。これは衝撃的な力が瞬間的に働いたわけではなくて、長年の疲労によって避けてしまったものなのだ。なので、時計が壊れたら時計屋さんへ、という万人受けする発想で「新宿 時計 修理」でググって出てきたとある時計修理工房に出かけた。

新宿の某時計屋に着くと、僕はまず店内を一般客を装い、って僕は時計の修理をオーダーするというれっきとした一般客なのだがまるで時計を買いに来て物色中がごとく店内をぐるりとまわりながら、時計の革ベルトが一覧できる場所で立ち止まった。店員さんは3人。みんなレジを打ったり、なんなりと仕事をしているので、なんとなく声をかけづらい。僕はとりえあえず、革ベルト一覧を見て値段の相場が3000円~8000円くらいであることを確認して、もう一度店員に視線を合わせると、メガネのボウズの店員さんがお手すきになっている。

「すいません」
「はい」
「時計のベルトの修理をこちらでお願いできると聞いたのですが」

本当は誰かに聞いたのではなくネットで調べたのだが、そういう詳細はこの際問題ではない。

「あぁ、できますよ」

よかった。

「それで、この時計なんですけれども」

僕は安心してカバンの奥の方から時計を取り出して見せる。

「あ・・・これはちょっと」

店員の表情が曇る。ちょっと口ごもりながらも続けるのを僕は黙って聞いていたが、要するに僕の時計は手作りの時計なので、修理できないとのこと。ちょっと待って、手作りなのは認めるけど、手作りったって僕が作ったわけじゃなく、ちゃんと時計職人さんが作ったのだよ。それなのに、何故!!時計が時計であるための時計の時計たる部分、時計のアイデンティティの時刻を表示する部分が手作りなのであって、皮のベルトを交換するくらいはできるんじゃないの。僕はもう少し問い詰めると、皮のベルトの部分が独特のつけ方で、一般的な時計はこうは付けないと言うのであった。

「ん。え、そうなんですか・・・」

僕はもう一度革ベルト一覧にあるベルト群を見てみる。そして僕の時計のベルト部分を見てみる。そして比べてみる。たしかにここにある全てのベルトは僕の時計には全く合いそうにない。というかよく考えてみると、僕の時計の皮のベルトみたいなベルト部分を持つ腕時計は見たことない。
時計の文字盤部分はよく目にしてたけど、ベルトの部分ってそんなに注目してなかった。ただの革ベルトだと思ってた。

「じゃあ、これはここではもう修理できないんですよね」
「すいません」
「時計修理工房、なのに、できないんですよね」
「すいません」
「じゃあこういうのを修理をお願いできるところって無いですか。どこの時計屋さん言ってもだめですかね」
「そうですね、職人さんに直接お願いするとか…」

出た。職人に直接お願いするパターン。僕はこの「時計が壊れて直接職人に修理をお願いするパターン」に対してとてつもない嫌悪感を持っているのでそればかりはもうやりたくないのだが、時計屋さんが考えられる唯一の方法がそれだと言うので一般人はただただ従うしか無い。というわけで、僕はとりあえずこの時計を購入した店に行って職人さんに送ってもらって修理をお願いすることになった。なんだか、修理という名の目的地まで近くなったのか遠くなったのかよくわからないが、僕はとりあえずまた自転車に乗って、過去2回と合わせて今回で「3回目」の修理のお願いのために、またあの時計屋さんに赴くことになるのだが、それはまた次の機会に。

279

マネとモダン・パリに行った。

印象に残ってることを箇条書きで。適当に。

・すごい混雑。
・かなり混雑。
・混雑すぎておねー様のパイオツがぶつかったりする。
・見ごたえは十分。
・「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」byマネ
・「夜会」byベロー
・「扇子を持つ女」byマネ
・なんか闘牛場の絵。タイトル忘れた。 by ネ
・エッチングやリトグラフなども結構あった。
・マネはやはり「黒」である。
・マネというと、やはりOlympiaとlunch on the grassが有名だけど、そこら辺の話は映像のコーナーで紹介されてる。技法のolympiaと、意味のlunch on the grass。
・「笛を吹く少年」があるかと思ったのだが、そこは残念。僕はあれが実は結構好きなのだ。
・モネとマダン・パリ

マネの素晴らしいところは、まずサロンへのこだわり。74年の第一回印象派展が開催されてからも、サロンで評価されることに絶対のこだわりを持っていた。それなのにもかかわらず、敢えて批判を受けるように意図されたとも言える作品群は孤独の中にも絶対的な自信が見て取れる。印象派のような、短いブラシのストロークや、光の使い方もあるのだが、絶対的な黒の使い方はやはりマネの作品をマネの作品たらしめる部分であると思う。白い洋服のバックの黒い背景。そういう絵が多い。よく考えれば、オランピアの草上の昼食も裸婦は白いきれいな肌だが、後ろは黒っぽい背景で、女性の部分がやたらと際立つ。オランピアには黒猫まで描かれている。印象派の画家は基本的に黒は使わないのだ。

さらに視点、焦点という点では、自分の目の焦点の部分は割と詳細に描かれている。タッチもこまかい。しかしマージナルの部分はいい意味で大雑把に表現されている。多分、実際に人の目もそう見えているのだろう。闘牛場の絵を見てそんなことも感じた。

また、印象派の先輩としての見方も十分に可能だ。オプティカルミクスチャーの先駆者としての斑点技法にはじまり、平面的な彩色。さらに、「エミール・ゾラの肖像」では背景にしっかりと浮世絵の作品を描いている。背景に浮世絵を描く、という点ではゴッホのタンギー爺さんとかの方がおそらく有名だけども。そういうジャポニズム的な意味合いも強い。モネとかも「ラ・ジャポネーズ」で嫁に着物を着せたりしてるしね。今でいうコスプレ的な趣味があったのかな。ってどうでもいいけど。


ちなみに「扇子を持つ女」とベローの「夜会」は見ていて気持ちが悪くなった2作品。気持ちが悪くなろうが、どうなろうが、作品の持つ力という意味では素晴らしかった。

次は、文化村か、新美術館か、ブリジストンか。。。